素晴らしい日本人に聞くシリーズ

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第五章「生きていること」のありがたさに気づく

藤原:現在は、社会との繋がりや人と人の縁がだんだんと薄くなっています。人の生死の問題についても、無関心でいる人が多いように思います。この点について何かお話を頂けますでしょうか?

村上管主: そうですね。身近な人が亡くなっても葬儀はせずに、病院から火葬場へ直行という「直葬」が増えてきているそうです。

私の父が亡くなったのは、二十年ほど前ですが、火葬場の都合がつかずに、四日ほど父を家に安置していました。

私の息子はまだ小学校三年生くらいでした。それまで毎日話をしていたおじいちゃんが冷たくなって横たわっているわけですから、息子も戸惑ったのではないでしょうか。

それでも息子は毎朝、いつもと同じように父に話しかけていました。もちろん父が言葉を返すことはありません。頬をさわっても冷たさを感じるばかりです。そんな何日かを過ごすことで、息子も子供ながらに父の死を感じ取ったのでしょう。


(村上管主のご子息、定運様と)

父の葬儀をした火葬場は、今はきれいな近代的な建物ですが、当時はまだ古い建物で火葬中に煙突から立ち上る煙が見えました。父の火葬のときに息子と二人で手を合わせてその煙を拝みました。言葉は交わしませんでしたが、それぞれの胸のうちは一緒だったと思います。

葬儀を終えて、家に帰って息子と一緒にお風呂に入りました。
息子が「お父さん、背中流すよ」とポツリと言いました。それまで息子とは何回も、何十回も一緒にお風呂に入っていましたが、そんな言葉をかけてくれたのは、あのときがはじめてでした。

父の死に接して、息子は息子なりに生かされていることのありがたさを感じ取り、そんな思いを込めて私の背中を流してくれたようです。

藤原: 心打たれるお話です。家族を見送るのは、悲しいことですが、同時に子供にとって「人の死」に向き合う大事な機会ですね。身近な人の「死」を通じて「生きていること」のありがたさに気づく、本当にその通りだと思います。

村上管主: 私たちは、普段は「死」について深く考えないかもしれません。しかしさまざまな体験を通して、目に見えない世界のことを考えたり、人との繋がりを見なおしたり、自分が生きている意味を感じる機会を頂きます。

これは私の娘の話なのですが、娘は父の下の世話などをすることで、人の健康について感ずることがあったのでしょう。医学への道を進むようになりました。

藤原: そうだったのですか。若いときにおじいさんのお世話が出来るということだけでも素晴らしいですが、そこから進むべき道を見つけられた。体験を通して、自分の生きている意味を感じるというお言葉、とても心に染みます。

村上管主: 私たちは、自分の死や身近な人の死は「縁起でもない」と考えることすら避けてしまいがちです。しかし、仏教では昔から生死の問題は大事なことだとされています。人生の最後を考えることが、いかに生きるかという人生観に関わってくるからです。

無縁社会と言われる時代だからこそ、命の尊さに気づき、生きる力を育んでいくことが大切なのです。

藤原: 大切な家族のために、心を尽くして向き合う。これは損得ではないですね。

村上管主: どんなにお金持ちでも、ちっとも幸せに見えない人をたくさん知っています。お金があれば「盗まれはしないか」とか「税金をどうしたらいいか」とか「誰に遺せばいいのか」などと悩みは尽きません。それよりも、どんなことにも「ありがたいな」とか「幸せだな」と思える心を持っている人が、真の意味での幸せな人です。

藤原: 村上先生の「仏法の種まき」は、「幸せの種まき」ですね。日本中に広がって欲しいと思います。日本中の人々が互いに「ありがとう」と言い合える、心豊かな美しい国になって欲しいと思います。それは村上先生が目指される「まほろば」のお心でもあると思いました。


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